呑んべい日記
ゴミ戦争
2010年4月12日 14時47分前都議会議員米澤正和氏の旭日綬受賞受賞を祝う会がイーストであった。議員生活43年を務めたことでの受賞だ。思い出話の中で、ゴミ戦争の話が出た。昭和47年、杉並区の清掃工場の話が住民の反対で進まず、杉並区からのゴミを受け入れていた江東区が腹を立てて杉並区からのゴミの搬入を実力阻止した出来事だ。私にも記憶がある。そのゴミ戦争の先頭に立ったのが、当時の区議会議長だった米澤氏だったそうだ。その結果、ゴミの自区内処理の原則ができて、各区に清掃工場が設立されるようになった。あれから三十数年、現在はごみの量も減り、江東区では、他区のごみを、有料で処理している。功績は大か。しかしまだ埋立は続き、中央防波堤内側もいずれは満杯となってしまう。みなで考えねばならないことだ。
まだまだ
2010年4月11日 14時43分ちょっと
2010年4月9日 15時09分家族で(父は入院中)、息子の友達の見せ「しみづ」へ。父の入院などで母も菊江も疲れているだろう。おいしい和食の店だ。ぜひ一度。でもあと少しで終わってしまうようだ。お店は森下3丁目。昔あったラフォンテのすぐそば。おいしく食べ、呑んだがやはりちょっと寂しい。
5年ぶり
2010年4月7日 16時55分このまま
2010年4月6日 15時37分300
2010年3月29日 17時31分父がお茶の水日大病院の救命救急室から、木場病院へ転送された。症状が一応落ち着き、血糖のコントロールと、リハビリを入院して行うとの事。とりあえずひと安心。木場病院で一通りの検査を受けるが血糖値は300とまだまだ高いそうだ。
涙
2010年3月25日 14時55分まとまらず
2010年3月23日 16時55分青色の三役会があった。最後の議題役員改選で話がまとまらない。役員人事は難しいが、なんとか会にとって良い方向へと進めたい。10時まで議論するがまとまらず次回へ。終わって青色コーナーに来てくれた新規開店のたこ焼き屋さんへ寄るが閉まっていた。そのまま「みたかや」へ。続きで盛り上がる。
別れ
2010年3月22日 17時02分女房の実家へ、お線香をあげに行く。昼飯をごちそうになり少しゆっくり。夜、仕事と太鼓仲間のOさんの奥さんのお通夜に出かける。52歳での旅立ちだ。悲しすぎる別れだ・・・
大変だ~
2010年3月21日 17時07分朝父の見舞いに。意識は戻ったが入れ歯がないせいか話すことがよくわからない。もう少しの我慢だ。体指の旅行のフォトムービーが出来上がった。DVD50枚を作らねば。大変だ~。
一安心
2010年3月20日 14時36分朝7:30病院へ。まだ意識は戻らない。面会時間が限られ、次は午後3時から。自宅に戻りやりかけの仕事をこなす。3時の面会で意識は戻ったが、まだ朦朧とした状態。それでも一安心。とりあえずは原因を調べる検査が続くようだ。
救急車2
2010年3月19日 14時30分今日は1中の卒業式だが、昨日の事があったので何か嫌な予感がし、朝1中へ連絡、卒業式を欠席させてもらった。朝10時、母が父の湯たんぽを取り替えに行き、ベットの上で、横になり戻している父を見つける。声をかけるが意識がない。また救急車だ。今度は救命救急でお茶の水の日大病院へ搬送される。糖尿病性昏睡と診断され、自発呼吸ができないといわれる。年も年なので心配だが、面会時間も限られ自宅へ戻る。また明日の朝だ。
救急車
2010年3月18日 14時21分昨日の夜中、父がトイレに立って転倒し、頭に怪我をした。寝ていて気がつくのが遅れたが、大事に至らず、朝一番で順天堂の江東高齢者医療センターへ連れていく。幸い怪我も大したことなく、CTも何でもなかったので、傷の手当だけで帰ることができた。ところが午後に体の痛みを訴え、やむを得ず救急車を呼び、白髭病院へ。ところが病院ではどこも痛くないと医者に言う。医者からは「この程度で救急車を呼ばぬように」と注意され、帰宅。しかしその後も痛みを訴え、夜10時になんとか起こし、トイレまで連れて行き、やっとの思いで寝かせる。安定剤を1錠飲ませたので夜寝てくれるとよいが・・・